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MULTI MEDIA時代、
わたしはこんな「夢」を持って生き抜く。

 メディアという媒体をつかって、どのようなソフトを提供するかだけれども、自分は、自分自身の信じたもの、音、文章などというものを伝えていきたいと思う。
 ただ、いまのメディアというものをつかって、どのように表現して、どのように夢を持って生きていくかは考えるべき問題であると思う。それで、実際に僕自身は、よく分からない。僕自身、5年前からインターネット上での、自分自身のホームページを自分で作り、何かができないものか試行錯誤しているが、ホ−ムページそれ自体は身内に情報を発信しているだけで、メディアとしての機能をなしていない。人の興味をそそるようなものであるものかつ、クオリティーが高くないと受け入れられないのだ。
 例えば、NHKのクラッシック音楽番組は、総合テレビから、教育テレビ、そして今は、BS放送というように、隅に追いやられている。総合テレビは、日本全国どんな辺鄙なところでも電波が届くようになっている。ただ、BSは他に受信機器を買い求め、受信料を払い見る。もちろん、普通のNHKでも受信料を払うわけだが。日本で、テレビは普及していても、まだやはり、BS、CATV、CSの分野はまだ普及していない。簡単にいえば、クラッシック番組は人気がないから、BSにまわしているような気がする。
 多チャンネル化をして、そのチャンネル特性や、番組の特異性をもたして、どんどん掘り下げていっても、結局、アナログテレビ、雑誌などのメディア媒体を通してPR戦略を取らなくては、多チャンネルも役立たないので、本来の意味をなさないのではないだろうか?
 そして、自分が結局、そのような現状の様々な媒体を通じて何を発表したいのか?
 吉本隆明は「悪人主義」の中でこんなことを述べている。
 情報科学系の人達っていうのはマルチメディア関係の色々なことが発達してきたら、要するに人間の精神もそれに合わせて発達するって言っているんですね。
 そりゃおかしいんじゃないかって僕は思うわけです。そういうものが発達すると、感覚も発達するって言うことだけで、精神が発達することとは違うよねって。
 要するに人間が「しゃくにさわると怒る」とか「おかしいときは笑う」とかいうことは人類始まって以来、同じじゃねえかっていうめんがあるでしょ。人類の発達というのは感覚器感の歴史じゃない。じゃあ何だっていると、フランス人に言わせると魂なんですよ。日本の言葉では心っていうことかなあ。魂とか心とか、そういう言葉で表現されるものは、ギリシャ時代からちっとも変っていない。
 結局、マルチメディアが進歩しても、技術がいくら進歩しても、伝えたいものの根本というものは『精神』にうったえうるものだと僕は感じるし、実際にそうであると思う。心とか魂にうったえるものを作らないとダメだと思う。
 その為に、自分自身としっかりと向き合い、自分の感じたものを素直に表現できるか。何か余計なものを考えずに素直に、表現できるか。というのを一番に磨かないといけないと思う。
 そして結局、自分の心を感じてそれを素直に表現できるか、ということが重要なのだと思う。自分は音楽というものを信じ、それといままで正直に向かい合って、生きてきた自信だけは、誰にも負けない。素直に感じ、精神的にうったえたり、感じたものを作ってきたし、自分で追い掛けてきた。その為にテレビという媒体を使ったり、インターネットという媒体を使ってきた。しかし、絶対に変らない『心の震え』を一番大事にしてきた。そういうものを、作っていきたいと思う。そういう根本的なものなしには、決して伝えたもの、こと、は伝わらないと思う。
 その上に、技術的な進歩があるのだと思う。クオリティーをあげたり、メディアの使い方をかえたり、その可能性を広げたりしていけばいいと思う。
 僕自身が追求していることは『音』そのものであって、それは、自分の感じた『音』、自分自身と正直に向かいあい戦い続けて聴こえてきた『音』と向かい合い、それをそのままストレートに表現することが、目標である。この自分自身の『音』を発表し、人の心を動かす−いやそんなたいそうなことじゃなくてもいい−何かを感じてくれればいいと思う。そのとき、自分が感じてたこと、何かを、感じてくれれば一番いいのかもしれないが、そうならなくても別にかまわない。何かを感じて欲しい。心の震えなり、悲しみなり、喜びなりを。
 だから、言葉というものを使って何かを表現してしまったら、それは、僕のなかでストレートな表現でなくなってしまう。言葉は伝達手段で、表現手段でないような気が僕自身はするからだ。だから、僕は『音』で、自分自身の『音』で、ストレートに心の震え−精神的なこと、日本語の心だ−を表現して、それを大衆に向けて、様々なメディアを通して伝えたいと思う。