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テクノロジーとアートについて

 まずこのテーマの時「テクノロジー」とは「何か」という定義が必要と思われる。広辞苑によると「技術学。工芸学。テヒノロギー。」原点である英語の、technologyの意を英和辞典(ロイヤル英和辞典、旺文社)によると「1、科学技術、工業技術、応用科学、工学。2、(文明の)技術体型。3、(集合的)専門用語、術語。」となっている。すなわち、「技術」それをテクノロジーと言うことになる。そこで、この語を「アートにとってツールの技術」と考えることにする。
 人は「コンピューター(すなわちツール)を使って作った作品が冷たい。」という。これはまさしくその通りだと思う。すなわち、まだテクノロジーがわれわれ人間の感覚に、そして技術に追いついていない証拠だ。
例えば、ヴァイオリンの音をサンプリングしたとする。その音が、どの弦でなった音か、どの弓使いで弾いた音とか、どのポジションで弾いた音なのか、弓の圧力はどれくらいなのか、どのフレーズ内の音のどの部分をサンプリングしたのか、などと言うことを考え、すべてのバリエーションをサンプリングして、それを作曲者が選んで音づくりをするという技術は、現在の技術では到底できないだろう。なぜなら、作曲者の譜面を見て、演奏者が弾き、譜面の空白を演奏者の魂がうめることで曲が完成し、それをレコーディーングする方法でしか曲は完成しない。もちろん、作曲をするイメージのなかでテクノロジーを利用することはできるだろう。けれども、生の楽器を、生の演奏者が演奏したものに果たしてかなうだろうか、かなうわけがないのだ。すなわち、アートにとってテクノロジーは遅れをとっているのだ。
 アートは、人間の生身の『何か』を表現したものでなければならないという、魅惑的なコトバに走るならば、テクノロジー(すなわちツール)が最終的には、脳と肉体と直結しなければならない。そのようなことは、今現在はない。これは誰しもが断言できると思われる。すなわち、テクノロジーとアートとという考えではだめで、アートとテクノロジーという考え方が必要となる。アートをやる上で、テクノロジーをどう利用するか。
 また、吉本隆明は「悪人主義」の中でこんなことを述べている。
『情報科学系の人達っていうのはマルチメディア関係の色々なことが発達してきたら、要するに人間の精神もそれに合わせて発達するって言っているんですね。
 そりゃおかしいんじゃないかって僕は思うわけです。そういうものが発達すると、感覚も発達するって言うことだけで、精神が発達することとは違うよねって。
 要するに人間が「しゃくにさわると怒る」とか「おかしいときは笑う」とかいうことは人類始まって以来、同じじゃねえかっていうめんがあるでしょ。人類の発達というのは感覚器感の歴史じゃない。じゃあ何だっていると、フランス人に言わせると魂なんですよ。日本の言葉では心っていうことかなあ。魂とか心とか、そういう言葉で表現されるものは、ギリシャ時代からちっとも変っていない。
 つまり、テクノロジー(吉本隆明のこの中では情報科学)の発達は、アートという『魂』『心』を表現する場では、互いに協調し、進歩することはないということだ。すなわち、アートをする人間にとって、あくまでもツールとしてのテクノロジーなのだ。
 アートという、『何か』を表現するものにおいて、テクノロジーとは『ツール』であり、それを表現者はいかに利用するか、テクノロジーに騙されずにいかに、『ツール(テクノロジー)』を利用するかが問題なのだ。テクノロジーはアートのツールであるということを忘れてはならない。