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ルチアーノ・ベリオ Luciano Berioを悼んで
ルチアーノ・ベリオ、この名前を聞いたことある人はほとんどいないだろう。しかし、彼は20世紀を代表する偉大な作曲家の一人である。この偉大な作曲家ベリオが5月27日に亡くなった。−書いているのが6月6日であるので一週間ちょっと前だ。−僕は、この作曲家がとても好きだった。もちろん、今でもとても好きである。
そして今回の発表会−何故か、自分は独奏曲まで弾いて、自分の未熟な腕を披露しなくてはならない−は、この偉大なる作曲家、ベリオの曲を演奏しようと決心した。
しかしながら、ベリオはあまりピアノ曲を書いていない。10数曲しか書いていないのではないだろうか。しかも、すべてにおいて、短い作品が多い。現在出版されていたり、CDにされているものを見ると−現代の作曲家の作品はすべての曲が出版され、演奏録音があるわけではないのだ。おそらく有名な作曲家でも半分以下しか、出版されず録音販売されていないだろう。僕の好きな曲Requiesも現在CDを入手することは困難である。−10分以上の曲はないのではないだろうか。−今回はその中で、wasserklavier、水の鍵盤(1965)−水の鍵盤、土の鍵盤、空気の鍵盤、火の鍵盤という、4つの「鍵盤」の文字を含む曲を書いている。また、この年、セクエンツァ_というソロピアノ曲を書いている−と、brin、芽生え(1990)−この年leafというピアノ曲も書いている。−の2曲を演奏しようと思う。この2曲は、現在入手できる楽譜の中で一番古い曲と、新しい曲−前述のleafも同年の作曲でbrinよりあとに書かれたのだが、この2曲はタイトルからも分かる通り、関連性のある曲であるので、どう時期の作曲と考えた。−だ。
wasserklavierは調性感のあるとても美しい曲である。ブラームスとシューベルトの和声感を探し出したといわれるこの曲は、同年代のベリオの作品から見ても、異端といわざるをおえない。だが、この古典和声感への回帰がこの後のベリオの原点となったことは間違いない。
そして、brin。この曲は、いかにも現代曲といわれる語法、テクニックでかかれている。しかしこのなかには、一般の現代曲にはないような、美しい音色感、和声感といったものがあらわれる。ここは、wasserklavierでの和声感といった根本があるからこそなせるわざではないだろうか?
この対極をなすようで、根本で繋がっているようなピアノ曲2曲を演奏したいと思います。
自分が弾くベリオについて書いたのであるから、フルートとピアノで演奏する曲についても書かなければならない。しかしながら、その新曲−もちろん演奏するというあくまでも予定だけれども−は、まだ完成していない。何小節できているか?と聞かれても一つの音符も書いていないと答えるしかない。なので、ここで今回の曲について書くことはできない。いま僕自身は、日本書紀歌謡を題材にした歌曲「忍哀歌」を書いている。10月末には芸大学内で演奏される。
曲を作るという作業はひどく体力を消耗する。五線に書いてみては消し、再び書き、再び消し、という作業をくり返す。自分が感じたこと、内面の奥深くから出てくるものを、五線に写しとる。そして、それがキレイに鳴るのかを、確かめたり、考え直したりして前へ進む。結果、最初に考えていたものとまったく違うものが出来上がったり、ますます、おく深いものに出来上がったりと予想はできない。とにかく、自分に正直に、音に正直に、向かい合い書いていく。頭でっかちでは無く、心を存分に開き、そして自分の身体、魂から出てきたものを書いていく。今回のように歌曲であれば、その歌を歌った人になりきって、その時、自分はどういう音を聞くか、聞こえるか、それを、自分に偽り無く聞き、それを五線の上に乗せていくのだ。
今回演奏する、フルートとピアノの曲は、どんな曲になるだろうか?歌曲の作曲でやつれた後に作るのだから、やつれた曲になってしまうのだろうか(苦笑)。どうなるかは、分からない。楽しみに−いや、苦痛のひとときかもしれない−して、聴いてくれると嬉しいです。
また、今回フルートを弾いていただく塚本有美さんは、輝かしい経歴を持ち、芸大の中でも有数のフルーティストだ。すごく綺麗な音色を持ち、自分の音、そして自分の声で演奏する、日本にはなかなかいないタイプの演奏家だ。その奏でる音を、耳を澄まして聴いていただくといいと思います。ただ、曲とピアノがいささかダメで申し訳ないのだけれども。。。。。
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